学習院女子大学 宮城ボランティア

1028日、ボランティアに参加する33名が大学に集合し、夜行バスで、宮城県に向かった。大学から宮城県の仙台まで、バスで約8時間。初日は、仙台市の小学校で開発教育プログラムを行う班と、気仙沼市で瓦礫等の除去を行うボランティア班の2つに分かれ、それぞれ活動を行った。朝7時頃、仙台市で開発教育班と別れ、そこからまた3時間かけ、気仙沼市に到着した。そこには、流されたであろう、一軒家、車、アパート。津波の爪痕がしっかりと残っていた。

気仙沼市での瓦礫除去は、現地で震災直後から活動されているRQという団体の方と一緒に行った。私達が活動を行うのは、もとは民家が連なる場所だった。

RQの方からボランティアを行うにあたっての諸注意を聞き、朝10時から活動を開始。2班に分かれ、一方は、ガラスや、釘、家の壁などを探して1つ1つ取り除いていき、もう一方はその仕分け作業を行う事になった。釘やガラスなどが落ちていると危ないので、足には長靴、手には特殊なかたい手袋をはめ、行う。1列に並んで、自分の身の回りに危険物がないか、確認しながらの作業だった。家跡の近くからは、ビールや衣服、新聞、硬貨なども埋まっており、平凡な日常を思わせるそれらを見るのが辛かった。現場には、私達の他にも、個人で参加されているボランティアさん、現地の方も活動に参加されていた。その方たちとコミュニケーションを取りながら、集中して行う。1時間ごとに休憩をとりながら、15時頃まで作業を行った。

 

 

1日目の作業を終え、南三陸町のホテル、観洋へ向かった。ホテルに向かう途中のバスから見える景色も、どこも津波の被害を受けたのがはっきりとわかるほど壊滅的な姿だった。場所によっては電気を通す電柱だけが修復されており、それだけが新しく、目立っていた。

その日の夜、震災の被災者である、中瀬町の区の区長である、佐藤さん(60歳)にお話しを伺う機会を頂いた。佐藤さんの住んでいた地区では、197世帯中、180世帯が津波で流され、今でも28人の方が行方不明だという。「夢でも見ている気分だった」と当時の状況を語る。避難しても、避難しても押し寄せる波に対し、「自分たちはもういい。若いものだけが助かれ」と言うお年寄りの方の話、「もしもの事があった時の為に、自分が誰であるか判断するために、自らの手に名前を書いておいた」と、涙をこらえながら語る姿を見て、心が苦しくなった。

2日目、8時にホテルを出発し、前日と同じ場所へ向かう。途中に、津波の被害を一番受けた場所で、バスを停車させ、降りて状況を見に行った。前日に見ていた津波前の写真の中にあった建物が本当に存在したのか?と疑いたくなるほど変化した姿がそこにあった。

9時からは昨日と同じく、ガラスや釘の除去作業を行った。その土地に、また家を建て、人が生活を始める姿を想像しながら、地道に作業を進めた。13時半に作業を終え、RQのボランティアの方たちにお礼をいって、気仙沼を後にした。2日間で行った作業は、ほぼ皆無に等しい。7か月経った今でもほとんど復旧されていない街の様子を目の当たりにし、復旧には時間がかかる事を、身を以て感じた2日間だった。

(国際コミュニケーション学科 4年 土屋淑恵)

 

以下、ボランティアに参加した学生の感想です。

 

 

被災地の被害状況があまりマスコミなどで取り上げられなくなった今、私は実際に現地に行ってみてよかったと思う。それは予想以上に悲惨な状況であったからである。震災から半年以上たったので少しは良くなっているだろうと思っていた。きっと多くの人がそう考えがちだと思う。しかし、まだ瓦礫は大量に広範囲に渡って積み重なり、建物の上に船や車などが乗り上げているという津波の威力を見せ付ける痕跡が残っていた。割れたガラスの破片はほぼ辺り一面に散漫し、片づけには果てない時間が必要だと思わされた。今回は短い時間しか作業はできず歯がゆい感じはしたが、実際に私たちの作業実績は土嚢袋の量でわかった。しかし、まだまだ終わりは見えない。私たちが作業しているときに一緒に作業していたボランティア団体の人の中にも東京の某大学に在学する人が何人かいた。このように多くの人が学校を休んでボランティア活動に励んでいる。この大きな被害は間接的であっても日本全体で復興に取り組む必要があると感じた。

被災者の話では、今一番困っているのが精神のケアで、私たちにも知恵を貸してほしいと心の底から訴えていた。私が現地に来る前に思っていたように半年以上経過しているから少しは復興しているのでは、と言われることが一番悲しいと言っていた。東京に戻ってまずこのことを発信していくべきだと思った。予想以上に復興が進んでいるということはこれからもないだろう。この大震災は決して忘れてはいけないし、忘れさせてはいけない。今回のボランティアに参加した一員としてこのことを周りに発信していくと心に誓った。

(英語コミュニケーション学科 3年 山岸由絵)

 

  ボランティア参加前、震災が発生してから半年以上が経過していたので、だいぶ復興しているだろうという思い込みが自分のなかにあった。しかしいざ現地に足を踏み入れてみると、言葉にならないピリピリした空気がそこには漂っていた。宿泊先のホテルからは海が一望できた。その海は陽の光を受けキラキラと輝き、一瞬で町を飲み込んだ残酷さがそこにあったとは想像できないほどきれいだった。一方で漁業を営み、生活の一部として不可欠であった海が一方で、全てのものを奪い去る別の顔があるという事実に改めて驚かされた。被災された方の「しばらく海が見られなかった。」という言葉が今でも心に残っている。実際、瓦礫の撤去作業を行い、コップや茶碗といった生活用品を数多く発見した。何ヵ月か前までは、誰かがそこで普通の生活を営んでいたのだと頭では理解できても、目の前に広がる光景からは全く想像ができなかった。今回訪れた場所は被害が最も大きかった場で、ニュースで数多く報道されていた。テレビや新聞で被害数を知っていたが、ただの数字にされてしまうと深
刻さが正直実感できなかった。しかし、現地の方のお話をきき、光景を目の当たりにするとその実感が湧いてきた。そのお話の中でも、忘れられてしまうことが一番こわいという思いを知ったとき、自分のなかで後ろめたさが生まれた。それは、冒頭で述べた思い込みであった。震災発生後、自分はいつの間にか元の生活に戻り、日々の暮らしではほとんど被災地への思いが薄らいでいた。故に今回のツアーで改めて被害の深刻さが認識できたと共に、被災地と自分との距離が縮まったと感じられ、参加でき嬉しかった。これをきっかけとし、今後も支援を続け、何よりも一人でも多くの人に関心を持ち続けてもらえるような働きかけをしたい。これからも一日も早い復旧、復興ができるよう心から願う。

(国際コミュニケーション学科 4年 高田奈都子)

 

 ボランティアを通じて、津波の恐怖が率直に伝わってきた。瓦礫の中にあった髭剃り、歯ブラシ、櫛などの生活用品の数々、それとは裏腹に本当にこんなところに人が住んでいたのかという何もない瓦礫の土地。今回の津波は本当に何もかも飲み込んで行ってしまったと実感した。しかし、それ以上に現地の方々が一番恐れていることは「忘れられること」であった。大きな瓦礫はある程度整理されたものの、重機では撤去できないガラスの破片や瓦の欠片等は私たちが2日間では到底処理できないほど多く散らばっており、まだまだ長期的な復興支援が不可欠であった。そして実際に今回のボランティアでもっとも印象に残っていることは、皮肉にも、東京に帰るバスの中から見えた南三陸町の海はとてもきれいだったことである。その風景を見たとき、この南三陸町には未来があると思った。東日本の被害状況がテレビで報道されなくなり、東日本大震災を通して団結した日本の繋がりが希薄化している現在だからこそ、そんな未来のある地を訪れる重要性は大いにあると感じた。東京にいてテレビを見ているだけでは決してわからない。私たちは震災から8か月以上たった今でも苦しんでいる人がいることを忘れてはならないし、少しでも自ら東日本復興に対して働き掛けることが大切であると改めて感じた。

(リーダー 英語コミュニケーション学科 3年 田中茉莉花)

 


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