12月13日(火) 松尾美恵子教授 「江戸時代の災害と幕府」

 

松尾美恵子先生は、日本の災害と近世の政治について、幕府の対応を中心に、以下の項目を中心に、ご講義された:

 

1.近世の主な災害

2.明暦の大火と幕府

3.元禄・宝永・安政大地震と幕府

4.富士山噴火・浅間山噴火と幕府

 

1.近世の主な災害

松尾先生は、まず、現在の教科書に出てくる近世の災害を紹介された。

  

<教科書に出てくる近世の災害(カッコ内数字は、掲載教科書数>

明暦の大火(10)  1657(明暦3)年の江戸大火

富士山の噴火(2) 1707(宝永4)年

明和の大火(1)  1772(明和9)年の江戸大火

浅間山大噴火(11) 1783(天明3)年

享保の飢饉(9)  1732(享保17)年

天明の飢饉(11)  1732(天明2)~87(天明7)年

天保の飢饉(9)  1832(天保3)~36(天保7)年

安政のコレラ(1) 1858(安政5)年

安政の大地震(1) 1554(嘉永7)・55(安政2)年

  

大きな災害はこのほか多数。地震は各地で起こっているが、教科書でとりあげられているのは安政大地震のみ。地震にともなう津波や火事で大災害となった元禄・宝永大地震にふれる教科書は皆無。松尾先生は、これから教科書が改定される際は、災害史の項目は増えるであろう、また、その必要性を、話された。

 

2.明暦の大火と幕府

明暦3年正月18日~19(165732日~3)に発生した以下の3件の火災 を複合し、「明暦の大火」と呼んでいる。外堀の内側がほとんど焼かれた。

 

  118日午後2時ごろ本郷丸山本妙寺(現文京区西片2丁目)より出火

  119日午前10時ごろ小石川鷹匠町(現文京区小石川3丁目)より出火

  119日夜麹町(現千代田区麹町3丁目)より出火

 

・・・延焼被害・・・

現在の千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の約60%、千代田区に隣接する地域

・江戸城本丸・二の丸

・大名屋敷160、旗本屋敷810、町800町、寺社300余、橋60

死者10万人~37000余人  牛島新田(→回向院)に葬った死者63430余人

 

江戸幕府は4分の1の領地を保有し、残り4分の3は大名の領地であった。幕府は、様々な救援、復興活動を行った。松尾先生は、当時の様子を記録した「むさしあぶみ」(1661年)の絵を紹介されながら、大火、救援の様子を、説明された。

 

幕府の直後の対応 としては、以下が挙げられる:

大名の参勤免除、放火犯の捜索、被災者へ粥の施行(6000)、焼米放出、米価騰貴の抑止、旗本・御家人へ俸禄前渡し、大名へ拝借金貸与、町人へ賜金、倹約令

  

当時の幕府は財政的に安定しており、お金を惜しみなくふんだんに使った。そして、活動は、復旧・復興、防災にかかわるものへと発展してゆく:

・復旧・復興 江戸城の再建、武家屋敷の移動、寺社の移動、町屋の移動→江戸の拡大

・防災・消防 道路の拡張、火除土手・広小路・火除地の設置、定火消の設置

・復興資金 大坂から金7万両、銀5万貫余、駿府より銀1万貫を運ぶ。(113600両余)

 

当時、将軍家綱を補佐する幕府要人(保科正之ら)の能力が高く、種々の復旧・復興のための施策はその後の江戸の発展に繋がった。復興資金はほとんど幕府が支出、財政はまだ潤沢だった。 江戸時代を通じ、江戸の火事は度々起こり、また京都・大坂でも大火が発生しているが、その時々の幕府の対応や復旧・復興過程に関する研究は多くない、と、先生は説明された。


3.元禄・宝永・安政大地震と幕府

(1)元禄・宝永大地震

・・・被害状況・・・

・元禄大地震は元禄161123(17031231)午前2時頃、宝永大地震は4年後の宝永4104(17071028)午後1時~2時頃に発生、ともにマグニチュード8以上の巨大地震

・元禄大地震の震源は房総半島南端野島崎付近、宝永大地震の震源は遠州灘沖~紀伊半島沖と推定(東海・東南海・南海地震が連動して起きた)

・この二つの大地震は地震による建物の倒壊などの被害も大きかったが、地震後に大津波が発生し、多くの人命が失われた(元禄大地震の判明分 死者5233人 死牛馬507)

・元禄大地震では江戸で大きな被害が出た。江戸城の石垣が崩れ、武家屋敷、町屋が数多倒壊した。また地震から6日後に起こった大火により、被害が増幅した。

・元禄地震における小田原の被害も大きかった。各所から火事が発生し、津波も襲来した。宝永地震では大坂・四国・東海道筋の被害が大きかった。

・元禄地震では房総地域、宝永地震では土佐国・紀伊国の津波被害が大きかった。

  安房国安房郡高崎浦(現南房総市)の長井杢兵衛は元禄地震・津波の様子を綴っている。また各地に供養碑が立てられ、災害の記憶を後世に伝えている。土佐国でも同じく、地震・津波の記録が伝承されている。

 

・・・幕府の対応・・・ 

・元禄地震は江戸で大きな被害が出、幕府は江戸城中における緊急時の避難、火の用心等を触れだした。また町方にかけていた犬扶持を免除した。

・元禄地震後まもなく、伊勢神宮をはじめ大社・大寺に祈祷を命じ、翌年には朝廷に改元を奏請している。

・幕府にとっての聖地、日光・久能山の安全確認。

・大名領域における災害に対しては、中央政府としてとくに手当せず、報告も求めていない。但し関東の入口小田原藩へは金を貸与し、江戸における大名の役儀を免除している。宝永地震・津波で大きな被害があった土佐藩にはとくに手当なし。

・土佐藩では被災地に役人を派遣し、被災者に救い米を与え、また盗賊等を取り締まるなどの対応をしている。

・元禄~宝永期、幕府財政難→貨幣改鋳、明暦期のような大盤振る舞いはなかった。

 

(2)安政大地震

・・・被害状況・・・

・日時 安政2102(18551111)午後10時頃発生、震源 江戸直下

マグニチュード 7.07.1(推定) 、江戸を中心に大きな被害

・相次ぐ地震

弘化4324(184758) 信濃国善光寺地震

嘉永622(1853311) 相模国小田原地震

安政元年615(185479) 伊賀国・伊勢国・大和国地震

安政元年114日・5(18541223日・24) 東海地震・南海地震

安政5226(185849) 飛越地震

 

・・・幕府の対応・・・

・幕府は家屋倒壊・焼失の老中・若年寄・寺社奉行に拝借金(無利息・10年賦)を貸与。

旗本・御家人へは万石以下~100石へ拝借金、90俵以下へ下され金

町方へは直後、お救い小屋を設置、握り飯の炊き出しを行う。

町奉行所で死傷者を調査(死者4293人、負傷者2759人、但し町奉行管轄の町人のみ)

物価統制・風評取締

・民間の施行(義援金)を奨励 施行を行った町人を褒賞

 

4.富士山噴火・浅間山噴火と幕府

(1)富士山噴火

・・・被害状況・・・

・宝永大地震から49日目、宝永4年1123(17071216)午前11時頃、5合目付近の東南斜面から噴火、129(170811)まで16日間続く。

・焼け石・砂・灰が大量に吹き上がり、砂・灰は北西の風に乗り、駿河国東部・相模国・武蔵国の町や村に降り注いだ。

・直接的な被害がもっとも大きかったのは東麓の須走村。焼け石が落ち大火となり、37戸が焼失し、延焼を免れた残りの家や、浅間社、寺院も噴出物の重みや地震で倒壊し、深い砂に埋もれた。

・噴火による死者の記録はない。季節が冬で、登山者がいなかったことが幸いした。

・しかし噴火による被害は噴火最中の直接的なものに止まらなかった。二毛作で作っていた麦は全滅状態、田畑・用水はもとより、炭などの燃料や、秣の供給源である野山も砂に埋もれ、村の生活・生産基盤は大きく破壊された。

・相模平野を流れる酒匂川は、土砂で埋まり、川浚い普請がおこなわれたが、大雨が降る度に下流地域で洪水を引き起こした。

 

・・・幕府の対応・・・ 

・噴火の第一報を受け、幕府・小田原藩は見分の役人を現地に派遣。

・小田原藩領の相模国足柄郡の村々は結束し、藩に対しては食い扶持米を、幕府へは田畑の砂除けを求め、江戸に出訴する行動を起こす。藩は御救い米を支給し、田畑の砂除けに尽力することを約束。

・幕府は被災地を収公し、小田原藩をはじめとする被災地の領主たちには替地を与えた。また全国を対象として石高100石につき金2両を徴収し(諸国高役金)、被災地救済の費用に充てた。ただし実際に被災地のために使われたのはその一部である。

・被災地は関東代官伊奈半左衛門(忠順)の支配するところとなり、酒匂川などの川浚い普請が大名に御手伝い役を課して行われた。実際の工事は江戸町人の請負で、村々から人足を集めた。この工事は田畑の耕作が出来なくなった百姓に働く場を提供する御救い普請でもあった。いわば失業対策の公共事業である。

・廃村寸前だった須走村は旅人や冨士登山者を泊めるために必要な生活手段である家屋の再建資金を諸国高役金から得たことで、もとの生活を取り戻した。

・ 須走村以外の村の復興は順調ではなかった。村々は幕府による田畑の砂除け普請を願ったが、田畑の復旧は百姓自身が行うものというのが、幕府の方針。一方生類憐れみ政策のもと、「御救い」も幕府の意図するところで、砂の深さ3尺(90cm)以上の村には「御救夫食石代金」、29寸以下の村へは「砂退け御救い金」が支給されていた。しかし、それも宝永62月をもって打ち切られた(将軍代替わり=政権交代により、政策基調が変化したか)

・享保元年(1716)幕府は被災地のおよそ半分、27948石余を小田原藩に還付した。しかし開発が不十分な駿河国駿東郡や相模国足柄郡の村々はそのまま据え置かれ、伊奈代官の支配が続く。但し同年より開発に要した人足扶持米が幕府から支給されることになり、深砂の村の再開発がようやく行われるようになった。

・代官伊奈半左衛門(忠順)は駿河国駿東郡では復興に力を尽くした恩人として語り伝えられ、のちに神に祭られた。ただしその施策とされた定免法の採用は、享保改革政治の一環として全国の幕領で行われたもので、しかも養子忠逵の代のことである。いずれにしても伊奈氏二代の施政は緩やかで、被災地の復興に力を添えるものだった。

 

(2)浅間山噴火

・・・被害状況・・・

・天明3年49(178358)77(84)大噴火、火砕流発生、

78(85)午前10時頃土石流による大災害

・7月8日の被害

吹き上げた熱湯が土石を押し流し、一気に鎌原村などの北麓の村里を襲った。土石流は吾妻川に流れ落ち、沿岸の村々を呑み込み、さらに下流の利根川沿いの村々に到った。この日の土石の「押出し」を当時の人々は「山津波」とか「泥押」と呼んでいる。被害は甚大で、多くの人や馬、家や田畑が土砂の下に埋もれ、あるいは流失した。その日の晩から翌日にかけて人馬の死骸が下流の村に流れ着き、銚子まで流れ出たのもあった。

 

・・・幕府の対応・・・

・被災地の上野国 幕領・私領(大名・旗本領)が錯綜

・川越藩では国家万民安全の祈祷、守り札を配布、人心の安定を図る。米金も支給

・幕府は泥入り・砂降りの私領(大名・旗本領)に対し、早々に領主から村々へ泥・砂の取り除けを指図するよう命じる→私領村々の復旧は各領主が責任を持ってあたるべきであるという考え。

・勘定吟味役根岸鎮衛の被災地見分

 御普請の実施 大名御手伝(熊本藩細川家)

・幕府は私領に対し、当初厳しい態度で臨み、自力復興を促していた。その後方針を大きく変更して、御普請の範囲を私領まで拡大。←上州・信州辺百姓一揆

 

おわりに

―災害と幕府

①幕藩制の枠組み

幕府の直接的支配がおよぶところのみを対象に、復旧活動が行われた。大名たちには、参勤交代をゆるやかにしたり、お金を提供したが、幕府が大名の領地で復旧事業を立ち上げることはなかった。

②江戸の災害

江戸における対応はきめ細やかだった。明暦の大火の際は、復旧・復興活動を通して、江戸が拡大した。

③民間の力

民衆の行動力が幕府を動かしたと同時に、周辺の村どうしでの助け合いがみられた。

 

災害の歴史を学ぶ意味

①教訓を得る(防災) 

過去の災害を学ぶことは、将来の災害被害を軽減させることにつながる。

②「今」を歴史的にとらえる→「未来」を創っていく

災害を通して、社会や政治の有りようを見ることができる。

 

最後に、松尾先生は、  地域の資料・文化財の保全は、それらを後世に残すのみならず、地域の再生のために、いかに有効に活用できるかを、考えてゆくことが、重要であるとお話しされた。もちろん、こういった取り組みは、被災地の人々の理解を得ながら、進めることを忘れないことも大切である、と、説明され、授業を終えられた。

 

 

参考文献

『大日本地震史料』『増訂大日本地震史料』

東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』

『江戸町触集成』塙書房

『東京市史稿』変災編

内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会編『明暦の江戸大火』

1707富士山宝永噴火』『安政江戸地震』

『小山町史』『小田原市史』

『江戸の危機管理』新人物往来社 1997

日本の時代史『享保改革と社会変容』吉川弘文館 2003

 

 

松尾美恵子先生は、2011年度春学期開講科目「日本史論III(近世)」で日本の災害史についてのご講義をされ、いくつかの授業の報告が以下で紹介されています:

 

http://tunagaru-wa.jimdo.com/活動報告/松尾美恵子教授-日本史論iii-近世-授業報告/

 

 

 


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