1月20日(金) 時安邦治准教授 「ナショナリティについて」

ナショナリティについて――「東日本を支援しなければならない」を検討する

 

 

2011311日の震災を経験したとき、みなさんは「東日本を支援しなければ」という強い衝動に駆られただろう。とはいえ、一歩踏み込んで「なぜ東日本を援助しなければならないのか」を考えると、ある問題にぶつかる。困っている人々は援助するべきであるというのは模範的な解答である。たとえば、キリスト教の教義に左右されずに考えるなら、新約聖書のルカによる福音書に出てくる「善きサマリア人」の話は、困っている隣人を援助することの重要性を述べている。隣人とはまずは自分の身近にいる人々であろう。しかし、サマリア人が異邦人を助けたという点を重視すれば、援助は国境に左右されてはならないというふうにも読める。

困っている人々を援助しなければならないとしても、私たちはアジアやアフリカをはじめとする世界中の多数の人々が自然災害だけでなく、疾病、飢餓、戦争、政治的抑圧、差別、貧困などで援助を必要としていることを知っている。実際のところ、私たちはこれらすべての「困っている人々」に対して自分が手をさしのべられるわけではない。では、誰から援助すればよいのだろうか(優先的に援助すべき人々とは誰か)、そしてそれはなぜか。他方、私たちは飢餓に苦しむアフリカの人々よりも優先的に東日本の人々を支援するべきではないか。

国境によって援助する人々と援助しない人々を区別することは正当化できるか。正当化できるとすれば、それはどのような仕方で正当化できるか。こうした問いをナショナリティとの関連で政治哲学の問題として考えたい。手引きとするのはイギリスの政治哲学者デイヴィッド・ミラーのナショナリティをめぐる議論である。

 

ミラーによれば、ナショナリティは(1)人々のアイデンティティの一部を形成し、(2)境界内の人々の利益を重視する倫理的な共同体であり、(3)政治的自己決定への要求をもつ。こうしたナショナリティのとらえ方には、リベラルからの批判が予想される。第一に、ナショナリティは虚構であり、道徳的義務がそうした虚構によって左右されるという考えは理性的に擁護しがたいという批判があり、第二に、ナショナリティの観念は政治的権威主義を支持し、非理性的なナショナリズムとなるという批判がある。

しかし、ミラーは『ナショナリティについて』(以下ONと略記)でこう述べる。成熟したリベラルな社会に住む私たちは、普段はあまりナショナリティを意識しないが、武力紛争や自然災害の際には、「私たちと同胞を結びつけている紐帯……に突然気づかされることになるのである。……通常の状況ではナショナリティへの無関心を公言しているものでさえ、ネーション全体の運命が全体として左右されかねないような例外的な瞬間には、アイデンティティ感覚が高まって自分自身の安寧が共同体の安寧と分かちがたく結びついていることに思い至ることは、大いに起こりうることなのである」(ON: 25-6)。これはまさに私たちが今回の震災で経験したことであろう。

私たちは確かにナショナリズムの負の面を知っているために、多くの人々はナショナル・アイデンティティと結びついた感情を意識的に押し殺そうとする。しかし、ナショナルな感情は否定され、克服されるべきなのか。

 

さて、ナショナリティはネーションと呼ばれる集団がもつ特性であるが、ミラーはネーションを「(1)共有された信念と相互関与によって構成され、(2)歴史の中で長期にわたる広がりを持ち、(3)その特性は能動的であり、(4)ある特定の領土に結びついており、そして(5)固有の公共文化によって他の共同体から区別された共同体」(ON: 48)と定義する。

ネーションは、お互いに顔見知りであるような構成員からなる共同体でもなく、部族、氏族、その他の血縁集団からなる共同体でもない。それは互いに見ず知らずの人々が同胞であるという信念を共有することによって結びつく集団であり、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」と呼んだものである。ナショナル・アイデンティティは本、新聞、パンフレット、近年では電子メディアなどのマス・メディアを介した集合的な想像行為に依拠する。それゆえ、ナショナル・アイデンティティはフィクショナルな性質をもち、言わば「神話」なのである。けれども、神話には神話なりの効用がある。神話は、ナショナルな共同体が歴史性をもっていると人々に意識させ、人々に先祖の美徳というかたちで道徳を教示する。こうしてネーションは倫理的共同体として、同胞に対する構成員の連帯感や義務感を高めることになる。

けれども、ネーションはフィクショナルであるがゆえに、つねにその歴史はいわゆる「歴史認識」の問題――歴史の修正、歪曲、捏造といった問題――をはらむことになる。この問題に対するミラーの解決は、公共圏における開かれた議論の可能性に求められる。「決定的な境界線は、『あるがままの』歴史の真理と『ナショナルな』歴史の誤謬との間にあるのではなく、だれもが潜在的に関わる可能性を持った開かれた議論や討論から生じるナショナル・アイデンティティと、抑圧や強化によって権威主義的に押しつけられたアイデンティティとの間にある、ということになるだろう。前者の場合、ナショナル・アイデンティティの集合的な意味は、時とともに変化することが期待できよう。そこには、つねに上述した意味での神話的な要素があるかもしれないが、それでもあからさまな歴史的事実の否定を含むものにはならないだろう。これに対して、権威主義的に押しつけられたアイデンティティは、より狭義の利害関心に奉仕し、きわめて露骨な方法で特定の時点の歴史記録を改ざんすることが避けられないだろう」(ON: 68)。「ナショナル・アイデンティティが自由に議論されているところでは、ネーションの歴史を……広義の道徳的模範とみなすべく考案された歴史観を支持しようと望む人々と、マイノリティに対して加えられた不正、背信行為、臆病な行動といったネーションの歴史の誤りや欠点に着目する人々との間で、実りある論争がなされているのをよくみかける。その場合、前者の人々は、私たちがどのように振る舞いたいと望んでいるのかを私たちに想起させてくれるのに対し、後者の人々は、私たちに失敗をもたらした私たちの習俗や制度の中に含まれる問題点を指摘しているのである」(ON: 69)。

ナショナル・アイデンティティの形成過程で、共同体のあらゆる部門から異論が唱えられ、実りある開かれた議論が行われて、さまざまな要素が付加されていく程度が大きいほど、ナショナル・アイデンティティは変容をともないながらも真正なアイデンティティとして正しく認識されていくのである。そしてその結果、公共文化が紡ぎ出されていく。この公共文化こそがナショナル・アイデンティティの基盤となるものなのである。開かれた議論から公共文化が生まれ、そこに新たな参入者が織り込まれ、ネーションは人々の積極的な解釈的実践によって更新され、アイデンティティを保ちつつも徐々に変容を遂げていく。こうしたミラーのネーション観は決して伝統や民族性といったものを権威主義的に絶対視するものではない。むしろナショナル・アイデンティティの神話性こそが多様なマイノリティの存続と包摂を両立させる可能性を担保するのだと言えよう。

 

ネーションが倫理的共同体であることを認めるとすれば、次に私たちが直面する課題は、ネーションの境界――ネーションが国家をもつ場合には国境になる――が倫理の境界となることをどう考えればよいかである。本気で倫理的普遍主義(ethical universalism)の立場をとり、倫理は国境に左右されるべきではないと考えるなら、私たちの援助は、東日本の人々よりも困窮しているアジア・アフリカの貧困層に向けられなければならない。これはやはり私たちの直観に合わないのではないか。私たちはどこかで同胞をこそ優先して援助するべきだと考えているのではないか。そこでミラーは、倫理的普遍主義では同胞を優先する論理を立てるのは困難であると論じ、ネーションの内と外とを区別し、同胞ネーションにより大きな道徳的義務を負うべきだとする倫理的個別主義(ethical paticularism)の立場をとる。そして、この立場が、非合理的感情に屈したものではなく、合理的に擁護できることを示そうとする。

個別主義によるナショナリティの擁護は、ネーションへの帰属や愛着には倫理的意義があるという前提に立つ。私たちはネーションの一員だという自覚があるからこそ、そのネーションに忠誠心を抱き、同胞を優先する。こうした忠誠心やそれにともなう義務は緩やかな相互的(互酬的)なものであり、自分が他の構成員の利害を重視するのと同様に彼らも自分にそうしてくれることを私たちは期待している。そして、同胞ネーションに対する義務の具体的内容は、理性的な議論を通じて形成された公共文化によって決まっていく。だから、政治権力を握る人々がその一存で短期間に決定できるようなものではない。私たちがネーションの構成員として果たすべき義務は、単に伝統であるというだけでなく、長い期間にわたる理性的な議論の蓄積がそれに根拠を与えているのである。

ここで、「緩やかな相互性」とは何を意味するだろうか。厳密な相互性を求めるなら、人々は自分が与えたものと同じだけのリターンを要求できることになる。今の時点で困っている同胞に援助するとすれば、将来それに見合うだけの利益を得られなくてはならない。しかし、そんなことを考えて東日本を援助している人はほとんどいないであろう。同胞ネーションによる相互扶助は、自分が与えたものにそっくり見合うだけのものは得られないかもしれないが、それでも将来自分が困ったときにはなにがしかの援助をしてもらえるだろうという程度の相互性にもとづいている。

互いに顔見知りである人々が結びつく小規模な共同体とは違って、ネーションでは構成員同士が知らない者同士であるため、誰もがしっかり義務を果たしているかどうかを確認することが困難である。それゆえ、ナショナリティの義務はほとんどの場合、制度としての国家、強制機構としての国家を通じて履行される。現代国家は多くの場合、富める者が貧しい者の生活を支えるような相互扶助の仕組み――所得の再分配の制度――をもっている。こうした社会的連帯の仕組みは、単なるギブ・アンド・テイクの関係性を超えて、ナショナリティの義務に裏付けられるからこそ可能になるのだとミラーは言う。「ナショナリティの境界と国家の境界を一致させることには、いくつかの積極的な倫理的根拠がある……。これが実現されている場合には、ナショナリティの義務は公式的な政治的協働の枠組みの中に表されることによって、よりいっそう強化される。またこの協働の枠組みは、厳密な相互性ではなく、緩やかな相互性の上に基礎づけられるので、その参加者一人ひとりの合理的な自己利益が命ずるところを超えた再配分の原理が可能となるのである」(ON: 126-7)。

 

この講義で扱う最後の問題として、ナショナリティの倫理は外部の人々に対する道徳的無関心を伴うのではないかという批判に応えなくてはならない。倫理的普遍主義者は、ネーションの枠を超えた基本的人権とそれに対応する義務のリストを支持するだろう。地球上のすべての人々が同じように基本的人権を享受しなければならず、私たちは別のネーションに帰属する人々にも同胞ネーションと同じ義務を負うことになる。もちろん倫理的個別主義者も基本的権利のリストを支持しない理由はない。ただしこの立場は、同胞ネーションに対する義務が別のネーションに帰属する人々に対する義務よりも優先することを認める。

どのような共同体も利用できる財源には限界があるため、すべてのニーズを満たすことはできない。ミラーによると、あるネーションAがその構成員である集団Bの権利を保障できない場合、部外者であるネーションCがまず果たすべき義務は、ABの権利を保障するようにあらゆる合理的手段(言論、経済制裁、軍事介入など)を尽くすことであろうが、それはネーションAの自己決定(主権)を損なうことになりかねない。ミラーは「基本的権利を保障する(たとえば飢餓から解放する)という積極的な義務はまずもって同胞ネーションにある」のだから、「かりにネーションAにおける悪政なり既得権のせいで困窮している市民がいるとして、さらにネーションCは自国の福祉の必要から、Aの困窮者に対してあまり(あるいはまったく)援助できないという判断をくだしたとしても、それは直接に彼らの権利を侵害したことにはならない」と言う(ON: 135)。

この論点については、私たちは慎重に議論をする必要があると思われる。国境の向こう側の出来事について、私たちは義務を負わなくてよいのか。同胞ネーションへの義務が別のネーションへの義務よりも優先されるべきであるとしても、別のネーションへの義務がないことにはならないのであろう。だとすれば、私たちは外国の人々にどういう義務を、どの程度負っているのか。こうした問いについて、世界のトップクラスの知性をもつ人々が今なお議論を続けている。ちなみに、ミラーもこうした国際的正義をめぐる問題に関して、『国際正義とは何か』で「ネーションの責任」という概念を用いて詳しく論じていることを付け加えておく。

 

まとめとして。日本の近代の経験から、私たちの多くがナショナリズムに対して強い警戒感をもっている。私はこの警戒感はかなり健全なものであると思っている。それゆえに他方で、私たちは倫理的共同体としてのネーションという議論を避けてきたきらいもあるだろう。東日本大震災は、私たちにとってナショナル・アイデンティティとは何かという問いを突きつけるものであった。私としてはこれから何年かをかけて、この問題に向き合っていこうと思っている。

 

 

●参考文献(邦訳のあるもののみ)

ミラー,デイヴィッド (2003=2005) 『政治哲学』 山岡龍一・森達也訳 岩波書店。

―――― (1995=2007) 『ナショナリティについて』 富沢克ほか訳 風行社。

―――― (2007=2011) 『国際正義とは何か――グローバル化とネーションとしての責任』 富沢克ほか

訳 風行社。

 

 

 


概要 | サイトマップ
Copyright (c) 2011 Tsunagaru WA Campaign ALL Rights Reserved.